AnnaBabyTokyo

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"関西の薄味"と"関東の濃い味"は文化の違いだけ?

関西の薄味文化と関東の濃い味文化、誰でも知っている食文化の違いのように思えますが、深いワケがあるようですね。
また愛知県を境に、日本はざっくりと東と西に分けられます。
これは歴史上の人物が関わっているからなのです。

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徳川家康が今の愛知県出身だから?

日本の和食文化は主に江戸時代に入ってから発展しています。
そのため徳川幕府を開いた徳川家康が食文化にも大いに関わっているワケですが、単なる家康様の好みで関東の濃い味文化が生まれたわけではありません。
そして冒頭で述べたように、愛知県を境に食文化などが東西に分けられるのも、家康が今の愛知県出身だからでも、何となく愛知県が日本の中央に位置するからというワケでもないようです。

まだ、豊臣秀吉が天下の頃、家康は今の静岡県や関東地方全般を与えられていました。
まだ未開拓だったので、秀吉はこうした人口も少ない場所を与えれば、家康が失脚すると考えたのです。

しかし、家康は秀吉の目論見を知ったうえで、この地域を関西に負けないぐらい急ピッチで発展させようと考えたのです。

関東の濃い味文化は労働者の健康を守るため?

まだ無法地帯だった関東一帯を関西に負けない都市に発展させるには、急いで工事を進めなければいけません。
そのため、家康は全国から労働者を集めました。
真夏の炎天下でも、労働者たちは働き続けなくてはならず、当時は一人の労働者が玄米をお茶碗18膳も食べていたそうです。
当時は今のように化学調味料も食品添加物もないため、人口が増えた江戸の街から、生活用水が川や海に流されることで、海水に様々な栄養が加わるようになり、やがて水中のプランクトンの栄養価も高くなりました。
そしてそれらを食べて成長する魚介類も増えていき、ご飯のお共に魚介類も食べられるようになったのです。
そこで、魚の臭み消しに、関西から伝わった淡口醤油を濃くした濃口醤油が造られるようになります。

この濃口醤油で漁獲量の多い、しらすやあさりなどが、濃い味付けの佃煮となり、ますます労働者のご飯が進むようになりました。
そうして汗で流れ出る塩分も補給でき、労働者たちは真夏でも、長時間、元気に働いてくれ、江戸の街はますます発展したそうです。

関西の薄味文化は素材が良さではない?

徳川幕府が誕生するまで、日本の中心地は京都、奈良、大阪と関西圏でした。
また、大阪の「食道楽」、栽培方法も丁寧で趣がある京野菜、兵庫県の明石沖で獲れる鯛や穴子、タコなど、関西は食の宝庫だと考えらていますね。

そして、関西の薄味文化は、もともと兵庫県の龍野で生まれた淡口醤油とカツオ出汁をベースにした色の薄さから、味も薄いと考えられている傾向もあります。

そのため、素材の味を生かすために、関西の料理は味が薄いと思われているのです。

しかし、実態はそうではないようです。

関西は丁稚奉公の食費を節約するために味が薄い?

関西は、商人の街でもあるので、昔から丁稚奉公がさかんでした。
商人たちはお給金を節約するために、丁稚奉公に食事を出していました。

そして商人は、食事の味を濃くすると、ご飯が進むことを既に知っており、わざと薄味にしてご飯が進まないようにしたという裏事情から、関西の薄味文化が広がったそうです。
ようは節約のために、薄味文化が広がっていたのですね。
※参考書籍:『江戸の食文化: 和食の発展とその背景』原田信男著

さいごに

まだ栄養学などが広まっていない江戸時代でも、汗を大量にかくと体内の塩分が流れ出ることを、経験から知っていたり、味が濃いとご飯が進むことを知っていたとは、昔の人々の知恵には驚きますね。

江戸近郊の魚介類が美味しくなければ、濃口醤油も発明されていなかったのかもしれません。
食の欧米化やファストフードに目が行きがちですが、自国の食文化も大切にし、お子さんたちから後世に伝わっていくといいですね。